不妊治療の幕開け
私は今50歳。2人の子どもに恵まれ、家族4人幸せに暮らしています。
もうすぐ子ども達も成人を迎える程に大きくなりました。
世間では、子育て18年なんて言われますが
親は、この先もきっと、子どものことは心配ですし、成人しても我が子は命を懸けて守りたい。
かけがえのない存在です。
不妊治療を経験していた時の私に言いたい。
「大丈夫!20年後、あなたは幸せだよ」って
しかし、世の中には、いまだに子どもを授かりたくて仕方がないのに思うようにいかず、
悩んでいる人がたくさんいる。
不妊治療に関する情報を耳にする度にそう思います。
2022年4月から、不妊治療には保険が適用されるようになりました。
このことで、少しでも多くの方が治療への経済的負担から解放されることを切に願います。
私は、不妊治療の専門的な資格を持っているわけではありません。
不妊治療の実体験を語ることしかできません。
だからこそ言えるのは
不妊治療をする立場からすれば、先の見えない不安を補ってくれるものは一つもない・・・
それは切実な思いなのです。
だから 子どもを授かりたいと思うのであれば前に進むしかない。
本当に妊娠できるのか、もしかしたら諦めなければならないのか・・・
答えのない真っ暗なトンネルをくぐる。
それが不妊治療なんです。
私は、自分の体験を語ることで、「我が子を抱きたい」という思いを抱きながら不妊治療に臨む方の背中を少しでも後押しできる存在になれたら・・・そんな思いでこのブログを綴っていきます。
新婚夫婦に襲った単身赴任宣告
私は27歳で1歳年下の今の主人と出逢い 結婚しました。
私たち夫婦は共働きでした。
結婚したらすぐに子どもは授かる。
そんな事は当たり前のものだとと思っていました。
それよりも、当時は主人が転勤の対象になっていたので、私も仕事を辞めるわけにはいかなかった状況から、いつ離れ離れの生活になってしまうのだろう・・・という不安が常にあったのを覚えています。
そんな不安をよそに、結婚後5ヶ月程たったある日、主人が転勤の辞令をもらって来ました。
あっけなく不安が現実化してしまったのです。
しかし、主人が転勤して間もなく、私の妊娠が分かりました。
まさかの流産
妊娠したら、産前産後休暇、育児休暇をとり、その間だけ夫と共にに生活できる。とてもタイミングのいい妊娠で嬉しかったです。
ところが、そんな喜びもつかの間、妊娠6週目に入る前に流産してしまいました。
精神的なショックから。しばらくの間起き上がる事さえできなかったのを覚えています。
こんな時、周りの人たちは心配して色々な言葉をかけてくれます。
「流産してもすぐにまた妊娠できるよ!」
「私も一人目は流産したから、大丈夫」とか・・・
しかし、こんな時にかけてもらう言葉は、なんの励みにもなりません。
もう、ほっといてほしい
その時の私はそんな風に感じていました。
今までにはあまり感じたことのない心が閉ざされた感覚でした。
流産以上の絶望
流産をきっかけに、私の産婦人科通いが始まりました。一女性の患者としてです。
この当時は、不妊治療専門の病院がそんなになかったものですから、同じ待合室に私のような一女性と妊婦さんが
混ざり合っている状況でした。
ある時、学生時代の同級生と病院でばったり逢いました。彼女はもちろん妊婦さんです。
私は明るく振舞いましたが、自分は、妊婦ではない・・・そのことがとても辛く感じました。
昔の友達の幸せを心から喜べない自分と向き合ってしまったことも、ショックでした。
この時は、流産後の体のケアと共に、妊娠するための環境づくりを万全にする必要がありました。
流産後半年ほどたったある日。医師からこう告げられました。
「かなり重度の子宮内膜症が妊娠を妨げている。致命的なのは、卵管が両方共、内膜症で閉塞しているので、
自然妊娠は無理です。」
こう告げられました。
目の前が真っ暗になりました。
「え?一度妊娠できたのに??なぜ?」
流産の時以上の絶望を経験したのです。
絶望的宣告 不妊治療の始まり
病院の帰り、すぐに電話をかけてたのは、母でした。
こんな絶望的な娘の話を聞いて、母も最初は動揺していました。
でもこの時母はこういったのです。
「治療の方法があるという事は、命を奪われる病気ではない だから、
医者の言う通りやってみればいいんじゃない」と
治療の方法がある・・・絶望のそこにいた私からはそんな発想は生まれませんでした。だから少し気持ちが楽になったのです。
母がなぜこんな励まし方をしたのか・・・それは、のちのち私の身に衝撃的な事実を突きつけることになるのですが、
母の言葉がなかったら、前に進もうとは思わなかったかもしれません・・・
これがまるこの不妊治療 の始まりです。